トヨタの豊田章男社長の年頭挨拶がYouTube動画で公開された。冒頭、静岡・東富士に建設する「コネクティッド・シティ」についての構想を紹介し、今後の自動運転をはじめとしたスマートシティへの取り組みについて熱く述べている。その年頭挨拶の全文を書き起こした。
記事の目次
■「新しいモビリティの文化を作り上げていく時代」に
皆さん、あけましておめでとうございます。本年もまた、健やかに新しい年を迎えることができましたこと、皆さんとともに喜びたいと思います。これもすべて、仕入先さん、販売店さんをはじめとするあらゆる取引先の皆さま、行政、地域社会の方々、すべての関係者の皆さま、そして何より、私たちの製品をご愛用いただいている世界中のお客様のおかげだと感謝しております。
さて、本日は「令和」の時代になって初めての年頭挨拶となります。「令和」には「人々が美しく心寄せ合う中で文化は花開く」という意味が込められていると聞きました。「令和」という時代を、私たちに当てはめるならばトヨタで働く人たちが、様々な国の様々な産業の人たちと「仲間」になり、心をあわせて「新しいモビリティの文化を作り上げていく時代」と言えるのではないでしょうか。
皆さんご承知の通り、CASE革命によって、クルマの概念そのものが変わるとともに人々の暮らしを支えるあらゆるモノ、サービスが情報でつながっていく時代に入ってまいります。つまり、私たちのビジネスを考える上でも、クルマ単体ではなく、クルマを含めた町全体・社会全体という大きな視野で考えること、すなわち、「コネクティッド・シティ」という発想が必要となってくると思います。
一昨日まで、私はラスベガスにおりました。毎年1月に開催されるCESで「コネクティッド・シティ」の構想を発表するためです。ぜひ、こちらの映像をご覧ください。
■「Woven City」構想のきっかけは?
「なぜこのプロジェクトを始めたのか」、少しお時間をいただき、その理由をお話したいと思います。
軽自動車を含めた日本の自動車市場のピークは1990年の780万台でした。この時のトヨタの国内販売は250万台、国内生産は420万台でした。当時のトヨタのグローバル販売台数が490万台ですので、販売の50%以上、生産の85%以上を日本が支えていたことになります。当時のトヨタの生産を支えていたのは、関東自動車やセントラル自動車といったボディーメーカーでした。
平成の時代は右肩さがりで、日本の市場が縮小してまいりました。2000年には、関東自動車は競争力を強化するために、横須賀工場を閉鎖し、岩手と東富士に生産を集約する決断を下しました。相模原にあったセントラル自動車は宮城への工場移転を検討していました。オールトヨタで、生産体制の見直しを決断し、少し軌道に乗り始めたかなと思った途端に、リーマン・ショックが起きたのです。
その直後の2009年に私は社長に就任したのですが、大きな決断をしたと思えば、予想もしない事態に行く手をはばまれる、その繰返しでした。みんな必死になり、赤字からの立て直し策を決断した途端に、米国での大規模リコール問題が発生したわけです。リコール問題からの再出発を誓い、グローバルビジョンを発表した2日後には、東日本大震災が発生し、日本列島の半分が大きな打撃を受けました。「6重苦」と言われる困難の連続に、日本での生産をあきらめ、海外にシフトする会社も出てまいりました。
当時、日本メーカー全体で1000万台の生産台数はこの東日本大震災を機に徐々に減り、1000万台あったものが800万台となりました。その中でトヨタはどうするのか。トヨタは「石にかじりついてでも日本のモノづくりを守りたい。そのためには、国内生産300万台を維持しなければならない」…。また「東北の復興の原動力にもなりたい。その方法は寄付ではなく、モノづくりの基盤をつくり、税金を納め、雇用をつくり地域に貢献することで東北を、日本を盛り上げたい」…。それが私の、そしてトヨタの考えでした。
こうした想いのもとに関東自動車、セントラル自動車、トヨタ自動車東北の3社を統合し、トヨタ自動車東日本ができたのです。そのまま順調にトヨタ自動車東日本として復興に貢献ができると思っておりました。
■その時、「コネクティッド・シティ」という言葉を初めて使った
しかし、日本市場の縮小は続き、今度また東富士の工場を閉鎖するという決断を下すことになってきたわけです。2018年7月、私は、東富士工場で働く従業員の皆さんと直接話しがしたいと思い、対話の場をつくってもらいました。私が「コネクティッド・シティ」という言葉を初めて使ったのが、その日のことです。その時の映像をご覧ください。
質問者:東北に行って、またクルマをつくっていきたいという気持ちもあるが、いろいろと事情があって、本当は行きたいけれども、家族のことを考えると一緒には行けない。辞めざるを得ないという人は中にはいると思います。そういう人のことを考えると、喜んで東北には行けないという気持ちが正直あります。今後、トヨタとしてこの東富士をどうしようと考えておられますか。
豊田社長:この東富士工場はこれから50年の未来の自動車づくりに貢献できる聖地、自動運転などの大実証実験コネクティッドシティに変革させていこうと、私は考えております。これはまだ構想段階ではありますが、必ず意志があれば、できると思います。
意志は続きました。そしてあの場で、社長の私に想いをぶつけるのは勇気がいることだと思います。ただ彼が必死に伝えたことは自分のことではなく、仲間のことでした。
工場を閉鎖するという会社の事情を受入れながらも、一緒に行くことができない仲間の気持ちを精一杯、伝えてくれたんだと思いました。東富士工場の閉鎖を未来につなげるために、この場所に「コネクティッド・シティ」をつくりたい。
その時点では、影も形もない「コネクティッド・シティ」という構想を私が口にしたのは、それを最初に伝えなきゃいけない人たちは、今一番苦しみを味わっている彼ら彼女らだと思ったからです。
■新たにCASE革命に対応するための取り組みも
CASE革命に対応する新たな取り組みにも積極的に取り組んでおります。2016年には人工知能やロボティクスの研究開発を行うTRIを設立、同じ年に「トヨタコネクティッドノースアメリカ」を設立、2018年には東京にTRI-ADを設立、同じ年に米国CESで初めて「e-Palette」を発表するので、社長にプレゼンに来てほしいと依頼されました。
そこで私は「TRIとトヨタコネクティッドという会社がクルマをつくったら、こうなった」という形で紹介しようと考え、最終的には「トヨタは自動車会社からモビリティ・カンパニーにモデルチェンジする」というメッセージとして全世界に伝わりました。その後、2年経ち、こうした動きはすべて「コネクティッド・シティ」に収れんしていくことになります。
これまでは、各機能、各地域が独自のペースで独自にモノをつくってきたと言えるかもしれません。これからは、様々な新しい試みを「コネクティッド・シティ」の中で実施することにより、タイミングを合わせたり、また連携をとることがより重要となってくると思います。
ただ構想はできても、この開発、ディベロッパーを誰にお願いするか、そういう悩みがまた出てまいりました。トヨタ社内、日本企業にも声をかけましたが最終的には「世界に知恵を求めよう」と思い、米国の知人を介し、デンマーク出身の著名な建築家のビャルケ・インゲルスさんにお願いすることにしたのです。
彼は、今回の構想を「Woven City」「あみこむ街」と名付け「道をつくる」というコンセプトを提案してくれました。スピードが速い車両専用の道、歩行者とスピードが遅いパーソナル・モビリティが共存する道、歩行者専用の道、この3本の道が網の目のようにあみ込まれた街をつくり、そこにトヨタの哲学であるTPSを入れるというのが彼の提案でした。
私は素晴らしい提案をいただいたと思い、これは、トヨタにしかできないプロジェクトであり、トヨタがやらなければならないプロジェクトだと思いました。トヨタは、自動車、住宅というリアルなビジネスをもっています。TRI-ADというソフトの会社もあります。人工知能やロボットといった要素技術をもっているTRIもあります。
そして何より、自動織機から自動車にモデルチェンジをした歴史をもち、いま、自動車からモビリティ・カンパニーへモデルチェンジをしようとしている我々だからこそ、やる意味があるのだと思っています。これまでのものの見方や考え方、仕事のやり方を変えることができれば、モビリティ・カンパニーへの道筋が見えてくると思います。
長々とお話をさせていただきましたのは「Woven City」を始める私の想いを皆さんと共有することで一人でもいい、自分の仕事のやり方を変えようという人をつくりたかったからです。
■章男社長のトヨタに対する熱い想い
ここからは、私がトヨタの皆さんに感じていることを素直にお話したいと思います。
昨年の春の労使交渉で、私は「今回ほど距離を感じたことはない。こんなにも会話がかみ合わないのか」ということを申し上げました。これは組合員の皆さんだけでなく、私の後ろ側に座っていた幹部社員の人たちに対して感じたことでもあります。
それ以降、「自分が感じた距離、自分と会社のギャップが何なのか」、その答えを出す旅が、昨年始まりました。自分の足でいろいろな職場をまわりました。人数が多いと本音が話せないと思い、少人数での懇談の場所にも足を運んでまいりました。ちなみに今日、この中で事技職に属しておられる方はちょっと手をあげていただけますか。私が最も距離を感じているのが「事技職」の皆さんです。
私が、どうして、こういうことを感じてしまうのかずっと、わからずにいました。そんな私にヒントを与えてくださったのが会長の内山田さんでした。内山田さんは「かつてのトヨタは、機能分業をやってきた。私も技術という機能の中で仕事をしてきました。当時を振り返ると、『他の機能の人たちから後ろ指をさされたくない、批判をされたくない』という気持ちを強く持っていたと思います。営業や生産といった他の機能に対して、自分たちがいかに正しいかを理解させることに力を注いできました。しかし、米国のリコール問題で社長が示した姿勢は違いました」と言われました。
私が示した姿というのは、格好悪くてもいい、ありのままをさらけ出す、トヨタは絶対に嘘をついたり、ごまかしたりしない。言い訳もしない。そして、誰のせいにもしない。これが、公聴会で、私が全世界の人々に伝えたことです。
この時の私の心境は、自分は国からも会社からも捨てられた、ただ自分はトヨタが大好きだ、ならその大好きなトヨタを守りたい、というものでした。ただ、トヨタの現場の人たちからは守られているという実感がありました。その恩を返すために、自分は今まで未来のために、闘ってきたのだと思っています。
しかし今、自分は会社を守るという姿勢をつらぬいているつもりなのに、トヨタの幹部をはじめとする事技職からは守られている実感を私自身は持てない、それが私の素直な想いです。トヨタの人たちはずっと機能分業の中で自分たちが正しいことを主張し、自分たちの機能を守ることを求められそれが評価されてきたんだと思います。
これが今も、身体に染みついているので皆さんの言動に距離を感じたり、会話が通じないと思うのではないでしょうか。これが昨年4月の労使協で私が思わず声にした「今回の労使協ほど、会社と私の距離を感じたことがない」と思わず言ってしまった一つの私の答えがこれです。
いま、自動車産業だけでなくあらゆる産業が未来のビジネスモデルを模索しています。「Woven City」というコンセプトを提案してくださったビャルケさん。これまで会ったこともなければ一緒に仕事をしたこともない。それにも関わらず、私のビジョンをくみ取った提案をしてくれました。
それは何故でしょうか。誰にも未来は見えないし、わかりません。でも、たどり着きたい未来があり、見えない未来への道を必死で模索し続けている人にはわかるもの、感じ取れるものがあるのではないでしょうか。モビリティ・カンパニー・トヨタ。私にもたどり着きたい未来があります。ビャルケさんはそれを感じ取ってくれたんだと思います。
■「トヨタ」がこれから目指すこと
これから未来に向けた闘いが激しさを増すことは、誰しも想像できると思います。会社を背負っている責任者が何をしようとしているのか。どこに向かおうとしているのかそれを感じようとする努力を私は求めているんだと思います。
トップダウンとは、部下に丸投げすることではない。トップが現場におりて、自分でやってみせることだ。私自身、これだけは絶対に実践すると決めて、必死に努力してまいります。
では、ボトムアップとは何でしょうか。現場の事情や理屈をトップに押し付けることではないと思います。トップの考えに迫り、自ら、自分の仕事のやり方を変えていくことではないでしょうか。モノの見方、考え方を変えなければ仕事のやり方は変わりません。
自分にも見えていない現実がある。トップもボトムも、そのことを受け入れる素直さ、そして、見えていない現実を見ようと努力することが大切だと思います。私は、そんなトップダウンとボトムアップを皆さんに求めているんだと思います。
今年からは、評価基準をはじめ 様々な人事制度を刷新いたします。会社で働く人の行動を規定する大きな力になるのが人事制度だからです。
まずは「トヨタらしさ」とは何か、ぜひご自身で考え始めてください。そのために、基幹職には「社外出向」を促進いたします。まったく畑違いの会社に行き、肩書きはもちろん、これまでの知識も経験も役に立たないとわかった時に初めて見えてくるものがある。それは、自分という一人の人間と向き合うことでもあります。外からトヨタを見ることで、今まで気づかなかった「トヨタらしさ」が見えてくるかもしれません。
そして、もう一つ、今のトヨタの中にある、学歴、職種、職位など様々な線引きや区別をなくしてまいります。これからのトヨタに線引きがあるとすれば、それは、「成長しようと努力する人」と「努力しない人」、「仲間のために働く人」と「自分のために働く人」。
つまり、「一人の人間としてどう生きるのか」という違いです。これが「人間力」で評価していく、ということだと私は考えています。ここで映像をご覧ください。
(「トヨタグループ 新任役員研修会でのご講演『元国際パラリンピック委員会会長 フィリップクレイヴァン社外取締役』」プレゼンテーションの映像が流れる)
クレイヴァンさんのお話にもありましたように、今から3年半前の2016年5月、IPCのオフィスを訪れた時、私は”One People”の後に”One TOYOTA”をつけ加えました。
トヨタで働く人は、どの国にいても、どの会社にいても、どの職種であっても「一人の人間」という点においては、みんな同じです。胸を張って、そう言えるトヨタになりたい、そんな想いを込めました。それは、私が今回の人事制度に込めた想いでもあります。
■未来へ向かってモデルチェンジ
そろそろ終わりにしたいと思います。
私自身、各職場を訪問したり、トヨタイムズを始めたり、コミュニケーションのやり方をいろいろ変えているのですが、残念ながら、「伝わっている」という実感はありません。「伝わる」ということは行動が変わるということです。私は今回の年頭挨拶はトヨタが変わる、皆さんが変わるラストチャンスだと思って、話をしています。
「令和」という新しい時代を迎え「Woven City」がスタートする、こんなチャンスは滅多にないと思います。「私には関係ない」「Woven Cityなんて私には関係ない」そう思う人もいると思います。そういう人をゼロにはできません。しかし、そういう人がマジョリティになったとしたらトヨタは世の中の人から必要とされない会社になってしまいます。
私がここまで話をするのには理由があります。いま、世の中では暗いニュースがあふれています。その中で、米国のCESで「Woven City」という明るいニュースを出せたと思いましたし、世間の方々もそう受け止めていただき「よかった」と思って帰国し、本社に戻ってまいりました。会社に戻って話を聞くと、「自分とは関係ない」と受け取っている人がいることを知り、その発言を聞き、本当に悲しく残念な気持ちになりました。
「自分の仕事とは関係ない」——。この意識を捨てていただきたい。これが私の正直な気持ちです。
今日、この会場に来ていただいた皆さんは自分の意志で、来てくださった方々です。これまで、この年頭挨拶というのは、昇格者や各部の部長など人事から指名された方々が中心でした。今回は違います。大げさに言えば、皆さんは自分の意志で一歩踏み出した人たちだと思います。一歩踏み出した人たちなら、何かを感じてくれるかもしれない、そう思っているからです。今日ここで、皆さんが感じたことをぜひ自分の殻に閉じ込めず、自分の仲間に、伝えていただきたい。私はトヨタという会社に感謝しています。
創業者の豊田喜一郎が自動車へのモデルチェンジに挑戦していなければ、我々は今、どうなっていたでしょうか。創業のメンバーの方々は何もいいところを見ていません。私も含む皆さんは継承者。継承者の一人として、報われなかった先輩たちに何とか報いたい。彼らの無念を晴らしたいとは思いませんか。
少なくとも私は、その無念さを晴らしてあげたいというのが、私自身の原動力です。良いところを見せてもらった我々が、私たちが、自動車からモビリティ・カンパニーへのモデルチェンジに挑戦することこそが、先人の無念を晴らすことになると思っています。未来の世代から「あの時のおかげで今がある」そう言われることを自分たちのロマンにしませんか。
「Woven City」をきっかけに皆で新しいトヨタをつくっていく、我々の仕事のやり方をモデルチェンジする。そんなスタートの年にしたい、心からそう願っております。ありがとうございました。
■【まとめ】自動運転時代・コネクテッド時代へ強い意気込み
これからの自動運転時代・コネクテッド時代を控え、強い意気込みを感じさせられる章男社長の年頭挨拶だった。2020年もトヨタの取り組みから目が離せない。
【参考】関連記事としては「【保存版】トヨタ×自動運転の全てが分かる4万字解説」も参照。
トヨタ×自動運転、ゼロから分かる4万字解説 開発方針から協業・投資まで一挙まとめ https://t.co/93yuj8yBtr @jidountenlab #トヨタ #自動運転 #解説
— 自動運転ラボ (@jidountenlab) November 12, 2019